この愛を欺けるの

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歌うこと、表現の感情と技術

11月24日、ベストアーティスト2015でKAT-TUNがパフォーマンスした、Dead or Alive。田口くんが脱退を発表した直後。メンバー3人の様子から見るに、彼らは「ここで言わせさえしなければ」と思っていたように見える。3人にとっては、遂に「3人のKAT-TUN」に向かって動き始めてしまった、その1曲目なのだ。

ジャニーズの歌は、そのグループのストーリーが乗ることがある。KAT-TUNのBirthは「赤西仁との決別・再生の歌」と言われた。SMAPのベストフレンドは流れるだけで中居くんが涙ぐむ曲として有名だ。NEWSのフルスイングや愛言葉は端からそれを狙った楽曲だし、キスマイのFire Beatは彼らのハングリー精神を象徴している。Dead or Aliveは確実にそういう曲になる、と感じた。これは田口くんとの別離の歌だ。例えるなら、3人のKAT-TUNにとっての「フルスイング」だ。

そのDead or Aliveで、私は今までKAT-TUNで見なかったものを見た。亀梨くんは音程を外していた。上田くんは涙声だった。中丸くんはほとんど踊れていないと言ってよいほど動揺している様子だった。こんなKAT-TUNは初めて見た。KAT-TUNとは、どんな時も安定したクオリティを見せてくれるグループだと思っていた。その彼らのこんな姿は、この10年で初めて見るのではないだろうか。特に鳥肌が立った部分がある。

「時が終わるまで I' ll never let you go alone 挑んだGAMEはリセットできない 背負う闇も連れて」

歌詞がハマり過ぎだ。まるでこの時を予期して書かれたのではないかと錯覚するほどに。こういう運命めいたものを見るのはショーの醍醐味だと思うが、これはなかなか残酷だった。きっと亀梨くんも歌いながら、この一文を和訳したに違いないと思っている。語尾が震えた。そして息を大きく吸って、次のハイトーンを歌った。歌ったというより叫んだ。泣き叫ぶように放った。亀梨くんはさほど音域の高い人ではない。高温になると声が細くなったり、不安定になってしまうこともある。けれどこの時、彼の声は力強く伸びた。そこにはどうしようもない感情が強く強く乗っていて、思わず涙が出そうになった。

表現者にとって、表すべき感情を持っていることは財産であると思う。しかしそれを、表現する都度にコントロールして常に同じように表すことは難しい。KAT-TUNは、常にプロとしての表現を出すグループだった。少なくとも私にとっては。だからこそ、生の感情がそのまま乗った歌は、とてもKAT-TUNらしくないと思った。

けれど私はこの類の生々しい感情そのままな表現が、結構好きだ。そういうものがショーの良さのひとつの形だと思っている。今まであまりKAT-TUNの表現そのものに惹かれたことはなかった(楽曲や踊りや歌は好きだ)が、この亀梨くんの大サビは、震えるほど良いと思った。今までのKAT-TUNとは違う種類の良さだ。

 

と同時に、この種類の良さには物凄く見覚えがあった。「藤北感」だ。
藤ヶ谷くんと北山くん。キスマイのパフォーマンスにおける不動のツートップ。彼らは常に全力だ。疲れてくるほどむしろ必死さに拍車がかかる。いつも何でそんなに全力なのかわからないのに、千切れそうに必死で、意味もなく泣きそうになるほど頼りなくて、力強い歌声。地の底から恨み節でも言うみたいに歌い叫ぶ姿に、時々、ステージ上で死んでしまわないかと本気で心配になる。
彼らがシンメでお揃いに持ってるわけのわからない切迫感と同じ種類のものを、あの瞬間、亀梨くんが確かに放っていた。そんなのは初めてだ。キスマイを通してKAT-TUNを見ることはあっても、KAT-TUNを通してキスマイを見るなんてことはなかった。想像もしたことがなかった。私はキスマイを悪く言っていいという風潮は見方が偏っていて好きではないが、KAT-TUNはキスマイよりプロ意識の認識について上回っていると思ってた。キスマイにはプロ意識よりも感情で歌うという表現があり、そのエモさも魅力のひとつであるが、仕事としてをアイドルやってる以上、本来であればKAT-TUNの姿勢のほうが正しいとも思ってきた。ここまで生々しく本物の感情で歌うKAT-TUNは、きっと初めて見た。
 
3人の態度は動揺が強すぎる。事務所は生放送での発表を許した。双方合意したとも書いている。テレビ局には注目度が上がるというメリットがある。だが3人のコメントでは、「悔しい」「引き止めた」「分かり合えない」と、全く円満な様子がない。事務所とは全く違う態度だ。今回は赤西くんや聖くんの時とは全然違う。会社とは話がついているのに、メンバーとは完全に決裂してしまったような雰囲気さえある。今までは問題児を切り捨てた、という印象だったが、今回は違う。あんなに決然とされてしまったら、切り捨てられたのはKAT-TUNのほうになってしまう。こんなに感情的に動揺する亀梨くんを見たのは初めてかもしれない。しっかりカメラの前に立っていながら、ここまで動揺している姿は。
キスマイでは、こういう感じはちょくちょくある。筋がわからないのか、わかっても感情が追い付かないのか、カメラの前で動揺する。大人としては少々情けないが、私はこの生々しさが結構好きだ。みんな腹に一物抱えながら笑っているような、必死に「仲良し」をやろうと奮闘しているような。そのメッキがはがれかけて、仕事を一旦放棄してでも修復しようと奔走するような。キスマイのそんな姿を、くだらないと看過したり幻滅したり出来ないのは、ほかでもないKAT-TUNのことがあるからだ。

キスマイの馴れ合いは激しい。公私混同も甚だしい。例を挙げれば枚挙にいとまがない。そんなにして息苦しくないのかというほど自ら相互監視と束縛をして、しかも嘘や誤魔化しを許さない。そこに嘘が介在すると、横尾くんのように謝罪して、禊ぎとしてメンバーに人生を捧げなければならないらしい。(自らそう語った1万字インタビューは批判されまくった上に、単行本として出版までされてしまうプレイである。多かれ少なかれ自分を悪く言ったに違いないだろうに、真実になってしまったのはそこそこ酷い仕打ちだと思う。自業自得だけどファンとしては心配な部分でもあった。)
そんな風にする理由は、きっとKAT-TUNの人数が減っていく理由と同じなんじゃないかと思う。なんなのかはわからない。そこがジャニーズの深い闇であって、グループというものが一筋縄では理解できない存在である所以だと思う。だからこそ、ジャニーズは面白い。そこが知りたくてもっともっとアイドルを見てしまう。商品のすぐ傍らにある闇が見たくて、ついついまた買ってしまう。
結局彼らは似ているのだ。そしてそれを別々の方法で、なんとか繋ぎ止め維持しようと必死なのだ。
 
話が逸れてしまったが、初めてKAT-TUNと亀梨くんにキスマイを見た記念にこれを書いた。藤北ってこういうことか…と、Dead or Aliveをリピートしながら思う。今までのKAT-TUNのあらゆるパフォーマンスの中で、これが一番心が震えた。藤北にいつも感じる、わけのわからない感覚に襲われた。
期限付きの4人のKAT-TUN。展望の全く不明な3人のKAT-TUN。私はいま、KAT-TUNのFCに入ろうか葛藤している。もちろん、「藤北感のある亀梨くん」を見るためではない。彼らがKAT-TUNのパフォーマンスを取り戻すプロセスに期待しているのだ。