この愛を欺けるの

応援スタンスや長文考察や好きなものの分析をするところ

付き合ってはいけない3Bな自担妄想・横尾渉編

突然だが、「付き合ってはいけない3Bの職業」と言われているものがある。美容師、バーテンダー、バンドマンだ。これらの職業は一般的なサラリーマンとの大きな違いがある一方、高度な接客業なので魅力的に見えやすい。よって人を見る目に狂いが生じやすく、パートナー選びにおいて失敗が多いということなのだと思う。

でもそれってなんだかアイドルに似てるよなあ…ん?そういえば、横尾さんって昔は美容師になりたかった的なこと言ってなかったっけ?

アイドルの中であれだけ美しい横尾さんが美容師とかなにそれチート…と思い立って、衝動に身を任せてもし横尾さんが付き合ってはいけない3Bだったら妄想を書き殴ります。また気が向いたら他の人編も書くかもしれないので、今のところ続編の予定もないのに横尾渉編ということにしておく。※ちなみに各職業についてろくに知らない一般人が書いているので、詳しい方からすると笑っちゃうところもあるかもしれません。すみません妄想です。

 

パターン1・バンドマン横尾渉

横尾さんは自分の親友であるカリスマ的なギターボーカルを中心とする5ピースバンドに所属し、ギターを担当。親友とはバンドの結成時から一緒なのだが、実は音楽レベルには少々の差がある。横尾さんの事務能力や営業力はこのバンドには欠かせないアイテムで、メンバーは誰も不満に思ってはいないが、本人だけは時折このバンドがメジャーデビューできないのは自分のせいではないかと思い悩み、自棄酒をあおったりする。

一番人気はやはりギターボーカルである親友だが、ライブ後の握手やファンとの交流では横尾さんの生来の人懐っこさや当たりの良さが評判を博しており、熱心に通うファンも多い。ボーカルは少々人見知りな部分があるため、彼のフォローをする姿がよく目撃される。この親友コンビの関係を勝手に解釈するファンが後を絶たず、バンドの盛況のため、メンバーからの提案でいわゆる〝BL売り〟に走っている。

ファンとの垣根が低く元来が人懐っこいので、相手がファンでも好意を持ったら声をかけるし、付き合うことに抵抗はない。決して適当な気持ちで付き合うわけではなく、毎回が真剣交際である。ただし精神的に少々不安定な部分があり、時々スキル面での不安や、行き過ぎたBL売りに疑問を感じたりなどで自棄を起こす。暴力は振るわないが鬼のような形相で口が悪くなる。手がつけられないので彼女とも長続きしない。

結婚願望が人一倍強い。周囲からは良い父親になると言われるものの、彼を最もよく知る親友だけは、お前は無理だろうと言っている。このギターボーカルの親友はFから始まる苗字かもしれない。

 

パターン2・バーテンダー横尾渉

何と言っても評判なのは、シェイカーを振る美しい指先だ。その手の平はシェイカーを包み込むのにぴったりの大きさで、且つ指がすらりと長く細い。かと言って貧弱なわけではなく、カクテルを作るのに十分な筋力がある。こだわりが強く経験者しか雇わない店長が、彼の手を見て例外的に弟子入りを許したという噂がある。

今では若きバーテンとして活躍している横尾さんは、もっぱら年上からの人気が高く、男女共に彼の作る一杯を飲みに、そして彼との会話を楽しむために足しげく通う。店で着るスーツにベストが身体にしっくりくるという理由で、休日でも出掛ける際にはその格好でいることが多い。そのため外でも「バーテンさん」と声をかけられがち。

客の年齢層の高い高級バーでの勤務であり、店で長く働きたいと思っているので、客との交際はしない主義。一方で彼女を作るのにさほど苦労はしないのだが、時間が合わないことが多いので浮気されたりする。一度浮気されると一瞬にして冷める。前の彼女の浮気現場を見てしまって以来、1年ほど彼女がいない。もうしばらくオンナはいいかな…と思い始めている。

 

パターン3・美容師横尾渉

驚異の指名リピート率を誇る、小さな美容室のトップスタイリスト横尾さん。その技術と評判は群を抜いており、大手美容室からのスカウトも多いが、今の自由度の高い個人経営の美容室が居心地がよく、断っている。いつかは自分の店を持ちたいという夢がある。人と話すのが苦にならず、相手の要望を汲み取ることに長けているので、美容師は天職だと思っている。

腕に定評がある一方、カットの最中にハサミを取り落としたり、説明している時に噛んだりとおっちょこちょいな部分もあるのだが、なぜかそれも親しみやすいと好感を持たれる要素となっている。密かに彼のファンで美容室に通っていたり、告白したりする女性が年齢を問わず後を絶たない。客から始まって付き合った女性もいたが、普段はがさつな面や彼女の扱いが雑な部分もあるので、イメージと違うと言われがち。本人もそれをわかっているので、今ではあまり客とは付き合わない。

その綺麗な指でカットやシャンプーをされると大抵の女は惚れるので、女ってホントに簡単だな…と内心思っていて、どこかで自分になかなか振り向かない女を求めているふしがある。高嶺の花的な女性が突然現れないかと日々妄想しているが、実際そんな女性にはなかなか出会えない。追う恋愛がしたいというのが実は悩みだがあまり人に言えない。

 

実際あんなイケメンどんな職業だろうと平地にいたら全女が惚れるんじゃないかな。これ北山くんでもやりたいし藤ヶ谷くんでもやりたい。っていうかみんな自担でやるの絶対楽しいと思うんだこれ。

でもってどの職業にしても手が綺麗でコミュ強って最強だなっていうのが全体の感想。

現実の横尾さん、アイドルになってくれて本当にありがとう。あなたが付き合ってはいけないどころか目が合うことすらない雲の上の人で、キスマイというグループで今のメンバーに出会ってくれたおかげで、こんな奇跡的な夢を見ることが出来るのだ。そう考えるとあらためていろいろ尊い。

アルバムフラゲ日に何してんだって感じだけどとにかく横尾さんがアイドルでいてくれるありがたみを自分の妄想によって再確認してしまった。わけわからん。アルバム聴く。

SMAPって耐えられないほど切ない曲あるよね15選

国民的と呼ばれて、その人気も安定期に入ったかのように思えたが、ここ数年また更に若年層のファンを増やしているSMAP。彼らの音楽活動については、活動期間が長いだけあり、一貫性を見出すのが難しい。だが、かなり初期の頃からSMAPに時折現れる系統が存在する。それが「耐えられないほど切ない曲」だ。

アイドルにはあまり専門性の高い音楽は求められないため、キャッチーで分かりやすい音楽が多い。バラードでも単なる甘いラブソング、SMAPで言うと「らいおんハート」のようにただ単に女性への(多くはファンを暗喩した仮想的な)想いを歌うものが主となりがちだ。しかしSMAPには、通常アイドルが歌うには重すぎるくらいの切ない・悲しいバラードがある。

この路線において決定的だったのは、2001年にリリースされた「pamS(ウラスマ)」である。それまでもアイドルにしては失恋の歌詞が多い傾向にはあったが、メンバーが若かったこともありポップな曲調が多かった。それをこのベストアルバムではバラードアレンジして再収録したのだ。以降、定期的にうら寂しい、千切れるような切ない曲が歌われるようになったような印象がある。

ここではそうした、SMAPのアイドルらしからぬ切な系バラード楽曲を15曲挙げてみようと思う。なんで15曲?キリ悪くない?と思うかもしれないが最初10曲にしようと思ったが収まらなかった。一応初収録年代順に並べてはいるものの、特に90年代の曲は遡って聴いているため間違いなどあるかも。

 

1.雪が降ってきた(1992年雪が降ってきた/2001年ウラスマ)

「あんなに恋した君の笑顔忘れない」

昨年のFNS歌謡祭でウラスマ版が歌われたのが記憶に新しい。こちらもシングルカットされたバージョンはポップな童謡のように歌っているが、これは歌詞の内容からして本当にウラスマ版が正解だと思う。中居くんのパートにある高音がとても切ない。清らかなクリスマスを連想させるサウンドの中で、静かに昂る喪失の悲しみが伝わってくるような曲。

 

2.泣きたい気持ち(1993年SMAP 004/1994年HeyHeyおおきに毎度あり/2001年ウラスマ)

「泣きたい気持ちだよ 二度とかえれない」

特に二番のサビが圧倒的に切ない。千切れるような想いを歌っているに違いないのに、オリジナルバージョンだと曲調がポップで、メンバーがまだ子どもの声なのもあり軽めの曲に仕上がっているが、ウラスマ版でヘビーな失恋バラードへと進化した。おそらく原曲は初恋の終わりを歌っているのだと思う。旋律として哀愁を誘うようなものではないのに、これを聴くと泣きそうになる。元は中居くんのソロ曲だった曲であり、中居くんの声質が一番合っていると思う。

 

 3.悲しくて眠れない(1993年SMAP 003)

「めぐり会えるね 次の未来きっと」

これも中居くんのソロ曲。こちらはカバー等されていない。そもそもアイドルの曲でタイトルが「悲しくて眠れない」って有り得るのだろうか。すごい。これはもはやバラードと呼んでいいのかわからないぐらいヘビーな曲で、旋律も歌詞もこれ以上ないほどの悲しみに満ちている。Bメロ終わりからサビにかけて、一気に展開していく感じが好き。歌詞は中居くんの若い頃の実体験に基づいているという。切ない。

  

4.恋の形(1998年たいせつ/2001年ウラスマ)

「別れもひとつの恋の形だね 同じ想い出を2人は愛する」

残念ながら手元に音源がなく原曲を聴くことが出来ていないのだが、ウラスマ収録版のあまりの切なさに、これがアイドルの歌う歌かと幼心にも圧倒されたのをよく覚えている。切ない旋律が、気温の高い、燃えるように赤い夕焼けを彷彿とさせる。歌詞からして明らかに別れてしまった後の歌なのだが、何も変わることなく愛し合っていることがわかる。もどかしい恋の痛みを歌うSMAPの切なくも美しいこと。

 

5.言えばよかった(1998年SMAP 012 VIVA AMIGOS!)

「知らなかった 君にもう会えないなんて」

好きな人が引っ越してしまって離れてしまう歌。そんなに重い曲調にはなっていないのだけれど、90年代の独特な軽めのサウンドと、繰り返される「言えなかった」「言えばよかった」という後悔の言葉に、何とも言えない悲しみが漂う。冒頭のラップなんかは結構明るい感じで入るのに、聴き終えるとどこか寂しさが残るような曲。

 

6.オレンジ(2000年らいおんハート)

→7.Song2 〜the sequel to that〜 (2002年freebird)

→8.夏日憂歌 (2003年MIJ)

「人混みの中でいつの日か偶然に 出会えることがあるのなら」

「いま1人歩き出す 君になにが出来るだろう」

「憧れ泣いたあの夢は 誰が手に入れたのだろう」

この3曲は作詞作曲が同じ人で、ファンの間では三部作と言われている(これが公式情報かは確認できなかった。)。オレンジはあまりにも有名な良曲である。Song 2は明らかにオレンジと同じ世界観とわかるし、爽やかな若い恋のもどかしい結末を歌う、潔さと未練とが綯交ぜになったような雰囲気も共通している。特筆したいのは夏日憂歌だ。翌年のアルバムに収録されているのだが、テイストが打って変わって、オレンジからかなり年月が経っていると思われる。主人公はもう結婚していて、それでいて、色褪せた古い思い出をアルバムを捲るように回想するような歌。「誰しもが皆時代を恨むのだろう」という歌詞から、若い2人の別れの理由も気になってくる。とにかくこの3部作は考察の余地も多く、またどれもSMAPらしい楽曲であることからファンの人気も高い。

 

9.僕は君を連れてゆく(2003年世界に一つだけの花)

「君に恋をした瞬間の僕を忘れない」

歌詞ではっきりと〝恋〟と言っているのに、私はこの曲がどうも単純な恋愛の歌に思えない。「僕たちの望むすべて あてどもなく遠いけれど」、「僕は君を連れていく」という関係は、恋愛というよりもむしろ、あるかどうかもわからない成功を目指して共に戦うグループのメンバーみたいだなあとか思っている。

という妄想はさておき、歌詞には「連れて行く」という一方的な関係性が各所に散りばめられている。単なる恋愛ではなく、何か事情があって対等な関係でいられなかったことを暗示しているように思える。「望遠鏡から覗く星のよう」な恋が、叶ったと言えるのかぜんぜんわからない。今は切なさや涙や重みだけがあって、それでも「君を連れて行く」という壮大な決意の歌である。

 

10.It's a wonderful world(2005年SAMPLE BANG)

「あなただけをずっと愛したい」

ここに挙げた中では珍しく、恋が実っている曲である。SMAP楽曲の中で最もど真ん中のバラード。特に木村くんはこういうラブソングが本当に似合う。優しく且つ壮大なサウンドで、神聖さすら感じさせる旋律で至上の愛を歌い上げる。コンサートでの感動が大きかった曲だ。会場中に5人の静かで優しい、しかし力強く愛を伝える歌声が響き渡り、とてもロマンチックな空間だった。これはむしろ、アイドル色の薄いSMAPの中ではどアイドルな楽曲かもしれないが、薄っぺらいラブソングとは比にならない荘厳さがあった。

 

11.Dawn(2005年SAMPLE BANG)

「もう一度巡り会えたら その時は笑顔見せて」

これは恋の歌ではない。では何がテーマなのかと聞かれると具体的なことは歌詞からははっきりわからないのだが、どこか世界平和のようなイメージが連想される。終末を感じさせるフレーズと、それをも受け入れすべてを許し合うという普遍的なメッセージの上に、悲しみと憂いを含んだ切ない旋律が絡み合っている。最終戦争の後のような、すべてを失った人々の歌のように聴こえる。

 

12.星空の下で(2006・Pop Up! SMAP)

「いつの日か年取って 無邪気に笑えたら」

かなり具体的な歌詞があり、少々情けない男の歌である。SMAPには意外に少々情けない男の歌も多いのだが、これはなんだか悲哀がある。後悔や喪失感の深さが伝わってくる。これは男性の支持を地味に得ているんじゃないかと勝手に想像している。コンサートの演出がロマンチックでとてもよかった。5人で切り株のようなイスに座って、星空の下でそれぞれが過去に想いを馳せているようで、幻想的な雰囲気があった。妙に頭に残るフレーズがいくつもある曲だ。

 

13.ひなげし(2010年We are SMAP!)

「もし僕がこのまま 眠りの中に閉じ込められたら」

歌詞からはあらゆる解釈の余地がある楽曲だと思う。恋愛にも結婚した夫婦にも思えるし、別れのような雰囲気も少しあり、友情や別の関係にも置き換えられる。具体性は無いが、「金色の涙」「ひなげし花言葉」という暗喩がどこか温かい、静謐なイメージを連想させる。曲調は静かだがそこまで暗い雰囲気もない。穏やかな情景が浮かぶような、それでいて薄っすらと切なさのある楽曲。今、もしくは5年・10年後のSMAPに歌ってほしい曲だ。

 

14.僕の半分(2011年僕の半分)

「振り向いて ここへおいで 美しい人」

ここまで黒鍵の音(何と言ったらいいかわからないけど♯や♭のつく音、この曲はたぶん♭)の効いた暗いイメージのバラードを、アイドルがシングルカットするというのがすごい。斉藤和義さん節バリバリである。はっきりと言わないが別れてしまった、あるいは何かで離ればなれになってしまっている人への未練の歌。しかし想いがまだまったく終わっていない様子である。恐ろしさすら感じるほど美しい言葉と音によって、切実な想いが表現されている。なんとなくKinKi Kidsっぽい雰囲気の歌。

 

15.好きよ(2014年Mr.S)

「手を伸ばした瞬間また 届かなくなって」

いわゆるゲスの人が書いた曲なので、これに触れることについては色々あるかとは思うけど好きな曲なので挙げておく。全編に渡りメンバー1人ずつの長いソロパートで構成されていて、5人で歌う箇所はないという変わった歌。独特な旋律にメンバーが柔らかく音を乗せていくような優しい曲。しかし歌詞を見ると、まるで死別した恋人への想いを歌っているようにも思える。40代のSMAPの最も切ない曲である。

 

タレントとしての活動が安定しすぎているため見過ごされがちだが、「音楽としてのSMAP」も幅広くとても面白いので、バラード好きな方なんかはぜひ聴いてみてほしい。SMAPの根底にある悲哀を見つけるとき、そこにこそアイドル性が宿っているように思えるのだ。SMAPはグループとしての経緯・変遷が特殊なので、ジャニーズ音楽との相違や共通を見つけるのも楽しいところ。

ゆるヲタ横尾担の応援スタンス

トピック「応援スタンス」についてというのが流行ってるみたいで、面白そうなので書いてみる。まだまだゆるヲタと言い張る横尾担の応援スタンス。

 

担当:横尾渉Kis-My-Ft2

好き:北山宏光藤ヶ谷太輔加藤シゲアキ(NEWS)、中間淳太ジャニーズWEST)、中居正広SMAP

 

▼録画事情 

キスマイと音楽番組。キスマイは全部編集・録画して保存。

音楽番組は見たら消す場合もあるし残すこともある。少クラは保存。他グループは基本テレビは観ない。

 

▼雑誌を買う基準

$誌5冊は定期購読。それ以外に買うのはキスマイのみで、ビジュと内容次第。藤ヶ谷くん・北山くんは個人露出でもビジュが良ければ買う。

自担個人の雑誌露出(連載以外で)はものすごく稀なので、これだけはあれば何も考えずに購入。

 

▼CDを買う基準

キスマイは「欲しいものはすべて買う」スタンス。いらないと思えば買わないし、欲しければ買う。全種欲しければ買うし、個人盤などで別にいいやと思えば買わない。売り上げに貢献したいので、オリコン加盟店舗での購入にこだわる。

NEWS・WESTはアルバム通常版のみ買うことが多い。シングルは基本買わない。

 

▼映像作品を買う基準

一応毎回内容を見て考えてるけど、キスマイは全種買い。特典映像がすごくて買わない選択肢がない。

他グループは面白そうだと割とすぐ買う。Blu-ray通常版買いがち。数年前のコン映像急に買ったりする。

 

▼現場に行く基準

コンサートはキスマイ2~3回、それ以外1回を目安に。NEWS・WESTを主軸に、他にも面白そうなコンサートにはちょこちょこ行く。SMAPは家族が好きなのでチケットが当たれば一緒に行く。

舞台は興味があれば1回。多ステはしない。自担でも2ステが限度。

番協・リリイベなどその他の現場は倍率がすごくて当たらないのであんまり応募もしてない。まあいいやと思ってる。ただ野球大会は自担いるから応募したら当たりました。

 

▼遠征する基準

キスマイコンサートのみ。1コンにつき1遠征程度。東京1回・地方1回の2ステが多い。なるべく低予算で行きたいのでホテル・交通費などで節約している。

 

▼グッズを買う基準

写真系のグッズはパンフレットと自担うちわのみ必ず買う。あとはビジュ次第。ポスターはあまり買わない。

ツアーグッズは実用性がありそうなら買う。だいたいSMAPとNEWSで一番買ってるけど、去年のキスマイのツアーグッズは意外に好き。ノートとか買った。

去年のキスマイベアは追加公演で売ってたので兄組3匹のみ購入。買ってみると日に日に愛おしさが生まれてくるので不思議。

 

▼ジャニショで写真を買う基準

キスマイのみ。ビジュ次第なのでぜんぶくださいは未経験。逆にビジュが良ければ自担以外でも買う。

 

 

ちなみに、自担であるキスマイとその他グループの応援スタンスの違いを表にまとめるとこうなる。

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「自担」という言葉の定義をそこまで深く追求する必要もないと思っているのだが、強いて言うなら、私にとって自担とは

  • テレビまで追いたいか
  • 個人露出まで追いたいか
  • 遠征してでも見たいか
  • 更に写真が欲しいか

が基準となる存在のようだ。

もともとあまり収集癖があるわけではなく、ここまで追いたいと思うこと自体がなかなかないので、キスマイに関しては欲しいものをあまり制限せず買うことにしている。ただ糸目をつけずにすべて買っているわけではなく、欲しいと思わないものは自担でも買わない。

コンサートはこれ以上多ステすると自分の現実を失いそうなので、このあたりが限界かなと思っている。3ステ超えると麻痺しそうなので、最大3ステでやめておくつもり。あと、コンサートよりもCD・映像作品・雑誌のほうが売り上げが重要だと思うので、3ステ以上行くお金があるならCDを買って貢献したい。

他のグループに関してはコンサート中心に考えているので、テレビや雑誌まで追うつもりは今のところない。$誌買うと載ってるのでビジュが良ければファイリングしてるくらい。

だいたい現在の応援スタンスはこんな感じです。

他担さんにご紹介したい、Kis-My-Ft2の「藤北」とはなんなのか?

 藤北とは、Kis-My-Ft2藤ヶ谷太輔くんと北山宏光くんのことを指す。2人はいわゆるシンメである。身近にキスマイファンが居る方なら、一度は「藤北」という単語を聞いたことがあるのではないだろうか?

 キスマイファンの間には、藤北は概念みたいな非言語の世界観があるため、その意味合いについて詳しく説明されることはないと思う。けれどもそれでは他担さんには伝わらない!と思い立って、「藤北ってたまに聞くけど、どこが好きなの?なにがそんなに特別なの?」という疑問を持つ他担さんに向けて、藤北が藤北となった簡単な経緯から、私の藤北に対する理解などを書き記しておきます。(そんな人がいたとして、こんな辺境のブログを見るかどうかはさておき)

 とかなんとか言いつつやっぱり私が藤北論書きたいだけ。解釈違いの方もいらっしゃると思うのですがあくまで私個人の考えです。エピソードについては他で見て頂くとして、ここでは要素での分析を中心にしています。

 

「藤北」をなぜ特別視するのか?―歌割

 キスマイ担が、担当を問わず藤北を特別視している(傾向にある)理由として、藤ヶ谷くん・北山くんがメインボーカルであることが大きい。

 キスマイは「格差」が何かと話題になるグループだが、かの有名なデビュー後衣装格差(いわゆるフロントと後列)が生まれるよりもずっと前から、かなり極端な歌割格差が存在する。デビュー前の楽曲からずっと、AメロBメロのほとんどが、藤ヶ谷くんと北山くんに割り当てられているのだ。

 恐らく年齢と歌唱技術を理由に始まった格差なのだと思うが、「2人メインボーカル+5人が後ろで踊り、サビは一緒に歌う」という形でファンに浸透したため、以降そのままになった。こうして偏った歌割に沿って踊り位置を定めたことで、デビュー前にしてキスマイは前後列が比較的固定されているグループとなる。前列2人・後列5人という「逆光GENJI」とでも言うような体制は、他にない独特の陣形だと思う。

 その後、CDデビューに伴い、テレビでお馴染みの3:4体制(藤ヶ谷くん北山くん玉森くんが前列、千賀くん二階堂くん宮田くん横尾くんが後列)となる。衣装格差もこれに沿っていて、デビュー後の楽曲は踊り位置も3:4体制である。しかしよく見ると、3:4体制の曲も、歌割ではかなりの部分が藤北に集中している。センターに立っている玉森くんにあまり歌割が無いことも多いのだ。

 このように、踊り位置に関わらず、キスマイの楽曲の大部分が藤ヶ谷くん、北山くんの2人で歌われている。「格差」への批判はあるが、藤北メインボーカル制についてはキスマイのファンのほとんどが納得しているのではないかと思う。キスマイは結成して10年以上経つが、そのうち9割方を藤北メインボーカル体制で活動してきているため、キスマイというコンテンツの核となる部分になっている。

 

キスマイの「センター」とは?―踊り位置

 じゃあ、藤北ってキスマイのエースなの?と言われると、そうではない。デビュー後のメディア露出・主演作品で考えると、現在のエースは玉森くんであると思われる。メンバーが言うには、現在、玉森くんが最もファンが多いらしい。(デビュー前は極端に藤ヶ谷くん・北山くんにファンが集中していた。)

 では「藤北」とはなんなのか?これは概念めいていて説明が難しいのだが、私がいま考えつく最も的確な表現は、「藤北は2人のセンター」である。(※ここでの「センター」は踊り位置のことであり、バラエティやトークの場面とは異なる。)

 この一見矛盾する言葉を説明するためには、まず「センター」の語義確定から入らなければならない。通常、下図のように、グループのセンターとは先頭・前列・中心線上の立ち位置を指す。

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 ほとんどのグループにおいて「センター」と言えば、この立ち位置に多く立つ人のこと指すだろう。ところがキスマイの場合、このすべてに当てはまる通常のセンターが不在になる陣形がある。それが上でも述べた、デビュー前のキスマイが多く採用していた2:5体制である。

 踊り位置に関して、2:5(デビュー前)と3:4(デビュー後)のどちらを「本来のキスマイ」とするかは議論のある部分だろうが、私の考えとしては、①近年シングル曲でも2:5体制になる場面が現れたこと、②コンサートがセルフプロデュースになって以降、藤北のペア曲を毎年アルバムに収録していること、の二点から、キスマイ及びレコード会社は現在、藤ヶ谷くん北山くん/玉森くんでは差をつけて取り扱っていると判断。期間の長さから考えても2:5体制のほうが多いため、ここでは本来のキスマイ=2:5体制として話を進める。

 もちろん楽曲によって変化はあるものの、前述の通り、パフォーマンス上においてキスマイの象徴的な陣形は2:5、つまり下図のような形である。(トークやバラエティ、テレビにおいてはお馴染みの3:4体制が多い。あくまでパフォーマンスの上でのもの。)この陣形だと、中心線と最前列の交点に誰もいない

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 ※上の図の後列の立ち位置は曲によって様々な陣形に変化する。

 センター性を「前列であること」と「中心であること」のどちらに比重を置くかはケースバイケースだと思う。キスマイの場合、「歌割が圧倒的に多い」ことを考えると、前列かつ歌割が多い1・2=藤北がセンターと言えるのではないだろうか。

 こうした状況から、キスマイファンにとって「藤北」は、他のグループで言う「センター」に対するのに近い感情があるように思う。しかも2人であることから、「センターにしてシンメである」という、矛盾する事象が共存する。こうした特殊な状況が、キスマイファンが「藤北」を特別視する理由として大きい。

 ジャニオタの使う「シンメ」という言葉を説明するのは難しいが、強いて言うならば、「反対側で同じ位置にいる、この世でただ1人の相手」、というような意味合いが込められている。するとシンメという関係の重要性は、立ち位置が重要あるいは複雑になるほど高いと言えるのではないだろうか?藤北というシンメが面白いのは、彼らがセンター性を持つからだと私は思う。

 「別に藤北ってセンターじゃなくない?」という声もあるかもしれないので補足。デビュー後のキスマイは、少し前までのJUMPの山田涼介くんのような「固定センター」ではなく、例えるならWESTの重岡くんのような「象徴センター」で、実際にセンターに立つ人はフォーメーションによって都度変化する。あくまで象徴的なということです。ちなみにデビュー前は藤北が完全固定センターでした。

 

シンメとしての「藤北」―2人の関係性①パフォーマンスにおいて

 さて、そんなキスマイの最重要パーツを担う「藤北」シンメであるが、ここでひとつ重要なのは、彼らが「不揃いなシンメトリーである」ことだ。シンメの条件として、背格好が近いほうが良いと考える人もいるなか、彼らは挙げればキリがないほど似ていない。

 身長差8センチ(公称。もっと差が大きく見える。)、藤ヶ谷くんはくびれがあるほど華奢な体型で、北山くんは筋肉質で体格のいいタイプ。藤ヶ谷くんはシュッと顎が細く、切れ長で奥目なので一見すると人相が悪いほど眼光が鋭い。いっぽう北山くんは目がくりっとした童顔で、愛嬌がありよく齧歯類に例えられる。一見すると、彼らは真逆だ。

 そんな2人が並んでシンメダンスをするわけだが、これは一見に如かずなので、一度どこかで見てみてほしい。彼らは確かにシンメだ。ひとたび踊ると体格差はあまり感じない。大抵の場合ダンスはかなり揃っている。形以上に、奇妙なほど息がぴったり合っている。藤北のダンスを見ると、彼らは個々を見るのではなくて、2人セットでひとつのパフォーマンスと見るのが正しいのだとさえ思う。

 しかし、ジャニーズの群舞とはまた違う個性も感じる。そもそも身体の大きさが違うので、同じに見えるためには違う動きをしなくてはならない。ダンスにもそれぞれクセがある。それなのに、彼らは「藤北」というひとつのモノだと感じられる。そしてそこにはアイドルと呼ぶには似つかわしくないほどの迫力があるのだ。

 では、2人の歌声はどうだろう?それぞれに聴くと、藤ヶ谷くんはよく響く透明感の高い歌声で、北山くんはハスキーで色気のある歌声。これも2人でかなり違う声に思える。しかし2人一緒に歌うと、溶け合ってひとつの音楽になる。恐らくアタック・リリースの処理や発音の仕方が似ているのだと思うが、音域によっては、2人の声がほとんど聞き分けられない時がある。

 こうした藤北の「似てないようで似てる、似てるようで似てない」部分については、本人たちも「似てないところが多いほうがいいかな」と発言している。彼らを見ていると漫画のキャラクターのように、誰かが人為的に、敢えて真逆に、そしてそっくりに誂えたみたいだと思う。

 ちなみに藤ヶ谷くんは昔、今ほど歌が上手くなかった。北山くんは以前、今よりも音域が高かった。高校生くらいの藤ヶ谷くんは三枚目キャラだったのが、当時圧倒的センターだった北山くんが今はその役割でバラエティに出演している。こうした経緯・変遷を経て尚、彼らは少なくとも、現在遡ることが出来るいつの時点を切り取っても、絶対に似ていなくて、とても似ている。

 どういうカラクリでそのように作っているのかとあれこれ考察したのだが、最近になって2人はプリキュアという結論に達した。2人はプリキュアなので、彼らは大きく意識せずとも比較的自然に、釣り合いが取れる。そして彼らは本質的に、プリキュアという同じひとつのモノなのだ。(わかりやすくプリキュアに例えましたが、よりわかんねーよと思った方はプリキュア→藤北に置き換えてお読みください。)

 

メンバーとしての「藤北」―2人の関係性②人間関係

 解釈の余地・余白が多すぎるため、2人の関係はハッキリ言えば「よくわからない」と言うのが正しい。自由解釈によってあらゆる見方が出来るので、不仲説からBL説まで出てしまうのだが、実際他のどのグループ、どのシンメにもない奇妙な関係だと思う。

 シンメとしては、向かい合うのではなく「背中合わせ」タイプである。お互いに決して目を合わせようとしない。少なくともカメラのあるところでは言葉を交わさず、互いの言動に対してコメントすることすら少ない。キスマイではオフの日にメンバー同士で遊ぶという話はとても多いが、藤北だけは互いのプライベートは一切知らないと公言している。そのため個人的なエピソードはとても少ない。

 だが前述の通り「2人のセンター」として、同じ重圧や責任を背負って戦ってきた経緯は確かであると思う。2人とも結構強そうな顔をしているが、精神的には案外脆い部分もあるため、どこかで心理的に支え合ってきた部分があるのだろうし、言葉を交わさずとも、暗黙のうちに通じる信頼があるのだと思う。

 不思議なのは、2人がファンやカメラの前で話したり、関わらなければならない場面になると「そわそわ」することだ。2人で話したりしているところを人に見られるのが照れるらしい。いや、人目に対して照れているのか、お互いに照れてるのかは判断がつかない。静かにボソボソと会話を交わしては、居心地悪そうに(でも満更でもなさそうに)している。

 一方で「氷河期」と呼ばれる、藤北が互いの言動に一切の興味関心を示さず、相手に不満を持っている(ように見える)時期が、現在までに2度ほどある。これがなんだったのか私にも未だにわからないが、2016年現在、2人の関係はかなり柔和したようだ。何か特に衝突や解決があったようには思えないのだが、北山くんの30歳の誕生日を藤ヶ谷くんがコンサートにて祝ったことが雪解けの大きなきっかけだったのかもしれない。そうだとすれば、そんなことでいいのか。なにか不満はないのか。よくわからない。

 ところで、最近友人から、三代目J Soul Brothersツインボーカルの2人でも同様の現象(そわそわ・氷河期)が確認されるという情報を聞いた。もしかしたらツインボーカルあるあるなのかもしれない

 氷河期のさなかでも、よく観察すると、藤ヶ谷くんは北山くんをよく見ているし、北山くんは藤ヶ谷くんをよく見ている。そして視線に気付いた相手がそちらを見ると、必ず目が合わないように目を逸らすのである。これが一体なんなのか、真相は2人のみが知る。

 このシンメの微妙な関係に、ファンがあれこれ想像を膨らませるのである。藤ヶ谷くんいわく「2人とも計算高い」らしいので、まんまと踊らされているわけだ。

 ちなみに私は、2人はプリキュアなので、わざわざ相手と仲良くなったり、日常会話したりする必要はなく、彼らは最初からシンメとして誂えられているのだと考えている。彼らは本質的には同じひとつのモノなんだろう。たぶん。

 

結論

 藤北とはキスマイの歌声である。センターにしてシンメである。2人はプリキュアである。

 

おまけ・横尾担から見る藤北

 藤ヶ谷くんと北山くんは画面上ほとんど関わりませんが、横尾くんというフィルターを通すと、2人ともしょっちゅう寄ってきます。藤ヶ谷くんは「わた♡」と女子高生みたいな顔して駆け寄ってくるし、北山くんは「よこーさーん!」とその童顔で甘えに来ます。どっちもかわいい。藤北やってる時とはえらいキャラ違うじゃねーかとなります。

 横尾さんは2人を甘やかしたり遊んだり比較的平等に扱っているようで、どちらが来ても嬉しそうです。ただし横尾さんは「藤北」を特別視しています。時折嫉妬するようなそぶりも見せますが、基本的には割って入れない関係と思っているようです。

 横尾さんには昔やさぐれていた時代があり、「あの頃の横尾渉を好きな人は誰もいなかった(藤ヶ谷くん談)」らしいのですが、いっぽうで「昔横尾さんと一緒によく遊んでた(北山くん談)」といいます。このあたりちょっと不思議ですね。

 藤ヶ谷くんと北山くんは片方が横尾さんの近くにいると決して寄って行きません。横尾さんに呼ばれれば近寄りますが、その際にも藤ヶ谷くんと北山くんは目を合わせず、2人とも横尾さんに向かって笑いかけます。そうですここは奇妙で歪んだ三角関係なんですなんという沼!!!!

 

 藤北の関係もパフォーマンスもマジでおいしいので、もしこれを見てちょっとでも興味の沸いた方がいらっしゃいましたらぜひなにか映像を見てみて欲しい。テレビでは伝わらない藤北を中心に書いたつもりです。とりあえず「藤北」で検索したらいろいろ出てくると思います皆さん藤北をどうぞよろしくお願いいたします!!!!

気に入らないなら口に出すな――SNSでアイドルをdisるリスクについて

少クラでJr.のパフォーマンスを見ている時、「ああ、これは本家を超えたな~」と思う時もあれば、「やっぱりデビュー組に比べると…」と思う時もある。違うグループのコンサートのDVDを立て続けに観て、「これの後にこれだとちょっと見劣りする…」と思ったりする。同じジャニーズという畑にこれだけたくさんアイドルが居れば当然なのだが、私たちは時に「○○において、△△よりも××が優れている」という感想を持つ。

誰だって自担グループのどこかの点を最も優れているから好きになっているのだから、優劣があるのは当たり前のことだ。内心では嫌いな人だっているだろう。だが、この感想をSNSに書き込むことには大きなリスクがある。アイドルに対して何らかの評価をするSNSアカウントは、多くの場合「自分が誰のファンであるか」を明記しているからだ。

 

「○○より××が優れている」「××が嫌い」「××は劣っている」という書き込みを見るのは誰だろうか?おそらくアイドル本人や運営する事務所、スタッフより、圧倒的○○や××のファンである人が見ることのほうが多いだろう。

時に「批判の集合によって、アイドル側が改善することがある」「厳しく育てるべき」という意見をする方がいる。また自らネットを見ると公言するアイドルもいる。だが、ネット上の批判によってアイドル側に改善が見られるというケースは極々稀だろう。例え彼らがその発言に触れても、数十万人を相手に商売する彼らにとって、たった千人程度の意見など無視出来る範疇だからだ。

また、「○○や××のファンではなく、ジャニーズやアイドルのファンではない一般人」もこの書き込みを見ることは物理的には可能だが、おそらくそうした一般人の目に触れることも少ないだろう。彼らは○○にも××にもさしたる興味はないので、検索もしないしそうした書き込みをリツイート等の機能で見るようなコミュニティにも属していないことが多い。

こうして考えると、この「○○」よりも「××」が「優れている」とする発言=「××」を「○○」よりも「劣っている」とする発言を見るのは、ほとんどの場合がここに名前の出されている「○○」と「××」のファン、あるいはそのどちらかが所属するグループのファン、あるいは○○か××のファンのいるコミュニティに属しているジャニーズの誰かのファンである、ということになる。

 

この書き込みで「優れている」とされる○○のファンのほうは、こうした書き込みに共感したり、好感を持ったりするのかもしれない。だが、裏を返せば「劣っている」とされた××のファンはどう思うだろうか?

例えばその書き込みをしているアカウントが「○○のファンである」と書かれていた場合、書き込みを見た××のファンは、例えその書き込みがたった1件でも「○○のファンは、私が好きな××は嫌いなんだ」と感じる。しかし一方で、どんなに論理的に××が劣っていて○○が優れているかを語られたところで、その人は××を嫌いにはならないし、ファンをやめることはないだろう。誰のファンになるかは個人の選好であり、他人の価値観に左右されることはないからだ。

××のファンを辞めることはないその人に残るのは、「○○のファンとは好みが合わない」「○○のファンは××が嫌い」というイメージ、あるいは「○○のファンと話すのは不快だ」という偏見すら持つかもしれない。だがここまではまだ、あくまでファンという単なる一般人に対する偏見や悪感情なので、さほどのリスクではない。

 

では、「自分が好きな××を批判する○○ファン」に立て続けに何度も遭遇した場合、××ファンはどう感じるだろう?

××ファンも、ジャニーズのとあるグループのとあるアイドルが好きな「ジャニーズファン」である。ということは、ジャニーズのパフォーマンスに何らかの魅力を見出している。「担降り」という言葉に表されるように、一度ジャニーズの誰かを好きになった人は、好きな人が変わってもジャニーズのファンで居続けることが多い

また「担降り」しないまでも、今××のファンであるということは、別のアイドルに××と共通項や似た部分を見つけた時、そのアイドルのファンにもなる可能性も持っているのだ。ジャニーズという同じ畑にいるアイドルを追う方法は、一度ジャニーズを好きになった人ならばよく知っている。他担でも興味が出てDVDを1枚買ってみることは、誰にでも有り得ることだ。

このように、今既にジャニーズの誰かのファンである人は、あらゆるグループにとって「将来の顧客」となる可能性を持っている

だが、××ファンがほんの少し○○に興味を持つことがあったとしても、「××を批判・劣っていると発言する○○ファン」を何人も見ていたら、まずDVDを買ってみるだろうか?私なら、誰かのファンに立て続けに自担を貶されたら、そのグループにはお金を落としたくないな…という気持ちになってしまう

 

「××のファンなんか少ないし!」と思うかもしれないが、同じことが××ファン以外にも言える。ジャニーズの誰かのファンで、××に対して特に何とも思っていない、あるいはある程度パフォーマンスや顔、キャラクターを気に入っている人がどこにいるかわからない。そういう人が「××を劣っているとする○○ファン」を見たら、「○○ファンは配慮がないなあ…」と感じるのではないだろうか?

そういう経験が重なっていくと、徐々に「○○ファンは荒れている」、あるいは「○○はあまり好きじゃない」というイメージ・悪感情にまで発展する可能性があるのだ。ジャニーズのファン全員が、アイドルにとって未来の顧客となる可能性があることを考えれば、これも結局は、「○○ファンが、回り回って○○の足を引っ張る」という構図になってしまうのだ。

 

なぜ「××は劣っている」発言をするのか?

その人が「××」を「劣っている」と「SNS上で発言する」のには、以下のパターンがあるのではないだろうか。

  1. ××ファン「ではなく」、自分が好きな○○とはタイプが違うため、魅力が理解できない。しかし××が誰かに評価されている、または売れているため、××の魅力がわからない自分を他者に肯定してほしい
  2. ××ファン「ではない」人で、自分が好きな○○の中に一部嫌いな部分がある。その嫌いな部分が××と共通しているため、○○に対する不満の延長として××を批判している
  3. ××ファン「だった」ことがあり、一部がどうしても嫌い・許せない・不満があったため担降りした人が、自分が××ファンとして費やした時間やお金を悔やんで、××を批判せずにはいられない。または、過去に自分が××に費やした時間やお金が自分の責任ではないと他者に認められたい

私が今考え付くパターンは以上だ。SNS上にいる様々な人を見ていると、どうやらこうした感情によって「××批判」を行っている人が多いように思う。これらすべて、××にしろ○○にしろ「何かしらに対する愛情に基づいて」いるところも性質が悪い。

しかしこうした自分個人の感情よりも、優先すべきことがあるはずだ。それは「ネット上で他者を不快にさせないよう最低限の配慮をする」という人として当たり前のことと、「自分が好きな○○に迷惑をかけない」ことではないだろうか。

 

じゃあ、気に入らないアイドルが居たらどうしたらいいの?

TwitterというSNSが登場してから、一般人がネットで発言することのハードルが一気に下がった。この記事もほとんどTwitterでの発言を前提に書いているふしがある。Twitterは個人の場所であり、何を言ってもいい」と認識している人も多いのではないかと思う

だが、Twitterも全世界に繋がったインターネット上だ。確かに言論の自由があるので、何を言っても、法に触れない限り逮捕されることはないし、国から発言の削除を強要されることもない。だが、特定の個人を不快にさせたり、誰かの業務・商売を妨害することはいくらでも有り得る。*1

その中で考えたときに、果たして「××は劣っている」という発言は、ネットという不特定多数に向けられた公共の場所で言うにふさわしいものだろうか。それを見た他者の反応を冷静に考えた時、もちろん一部には共感もあるかもしれないし、自分の目に触れる範囲には同意しか見えないかもしれない。だがその裏に、もっと多くの目に見えない反発や悪感情があり、それが自分の好きなアイドルの業務妨害に繋がるとしたら?それほどのリスクを持ってまでそんな発言をしなければならないのだろうか。

良いと思ったこと、優れていると思うもののことしか言わなければいいのではないだろうか?わざわざ、劣っていたり嫌いなものについて、それが劣っていると公言しなければいけないのだろうか?

 

冷静に考えれば「××は劣っている」「××が嫌い」「××より○○のほうが良い」と発言することには、大したメリットも利益もなくリスクばかりがある。それなのに実際には多くの人たちがこうした発言をSNS上で書き込み、多くのトラブルが起きている。

私と同じアイドルを好きな人たちには絶対にそうした「他担disり」発言をしてほしくない。自分自身の品性を落としたり、批判された誰かのファンがどう思おうが構わないという人もいるかもしれないが、自分の好きなアイドルの足を引っ張るなんてあまりにも馬鹿馬鹿しい。そういうことは現実の友達に聞いてもらうか、鍵をかけて他人に見られないアカウントで吐き出せばいいのだ。

あなたがもし誰かのファンであることを公言しているなら、ぜひネット上での振る舞いに気を付けてほしい。これほどインターネットが発達し誰もが情報の発信者となることが出来るようになった時代において、あなたのネット上での振る舞いは、あなたが好きなアイドルのイメージと直結することがあるのだから。

 

なぜこんな記事を書いたかと言うと、自担を批判するファンが多すぎて、嫌いになったアイドルがいるからです。こんなくだらない理由で売上を落としたり、ファンになるかもしれなかった人を失うなんてあまりにも馬鹿馬鹿しい。ファンの言うことなんか気にするなと言われても、他担にはその不快感を我慢してまでそのアイドルを好きになる努力をする義務もありません。自担を認めさせたいなら尚更、他担批判は控えましょう。

*1:極端な話、自分の発言によって誰かに損害が発生すれば、賠償を求める訴訟を起こされる責任も含めて「自由」だ。決して「自由=何を言っても誰にも文句を言われないことを保証するもの」というわけではないのである。

Kis-My-Ft2 Concert Tour2016発表に際して・キスマイコンについて考える

2016年のコンサート日程が発表された。7月~8月という夏休み期間、4都市11公演のドームツアーだ。真夏の土日をフルに割り当てられたなんとも好待遇な日程である。これだけ早い時期の公演なら追加公演や年内の映像化も有り得るし、あるいは舞祭組のアルバム・ツアー等のイベントが秋以降にある可能性も期待できる。

去年までキスマイは料金先払いだったのだが、今年からメール申込み・後払い・メールで当落確認となった。先払い制には転売防止の意味もあったと思うのだが、それを捨てても後払い制に移行するのには、最大限倍率を上げて潜在的な動員可能数を測りたい意図があるのではないだろうか。ひいては近い将来の札幌ドーム公演を狙っているようにも思える。

またこちらとしては、当落発表がメール配信になったのは非常に有り難い。発表期間に入っているのに、回線パンクで一週間以上当落の確認ができないのが常だった。

 

以前、私はこういう記事を書いた。

ayayaya-kis.hatenablog.com

この記事を書いた当時、私はキスマイをまだ「ジャニーズ」の枠組みの中で考えていた。しかし「2015KIS-MY-WORLD」DVDが発売されて繰り返し見るうちに、その考えが少しずつ変わってきた。

キスマイのコンサートは、2014年からセルフプロデュースとなった。それ以前とそれ以後では、明らかに構成センスが変わった。2014年のKis-My-Journeyには「Kis-My-Landのブラッシュアップ版」という趣旨もあったためわかりにくかったが、この2015年KIS-MY-WORLDを見て、はっきりと、従来のエイベックス主導のコンサートとは趣向を変えていることが見て取れた。

2014年以降、キスマイのコンサートは急速に「脱ジャニーズ化」しているのかもしれない。

 

ジャニーズのコンサートにおいて、フライングや照明・特効・舞台装置は、演出の重要な部分として位置付けられている。そしてそれは派手で豪華であればあるほどよく、豪勢な演出を使いこなすグループほどよりアイドル性が高いとされる。東京ドーム以上の広い会場では、大掛かりな演出によってその広さを埋めることが良いコンサートとされてきた。

2014年以降、キスマイのコンサートはどうだろうか?以前は大型LEDパネルや巨大な船のセットなど、大がかりな舞台装置も使用していたが、2014・2015年のコンサートではそうした巨大な装置は消えていた。凝った照明演出もあまり登場しない。特効は使いどころを1曲に限定して、そこで乱発するという演出になっていた。

これは確かに、従来のジャニーズに多い豪華絢爛な演出のコンサートに慣れた人たちにとっては物足りないのだろう。もっと壮大な演出効果を駆使して、それを背負ってなお輝くことこそがアイドル性だと考える人にしてみれば、「背負うものが足りない」と感じるのもやむを得ないかもしれない。

 

では、キスマイはなぜこうした簡素な演出に切り替えたのだろうか?ジャニーズのコンサートに慣れた人にとっては物足りないはずの簡素な演出でコンサートを行うことには、一体どういう狙いがあるのだろうか。

正確な数を調べることはできないが、キスマイのファンには以前から他のグループのファンだった人と同じかそれ以上に、キスマイで初めてジャニーズを知った人が多く存在する。その人たちにとっては他のジャニーズのコンサートは未知のもの、あるいは別の世界のものであり、キスマイのコンサートがそれらと比べてどうではるかは恐らく何の関係もない。

キスマイのコンサートには一定数の男性客が来ている。私の肌感覚でしかないが、ジャニーズのグループとしては男性客の割合がとても多いほうであると思う。また、ちょうど2014年頃から、小さい子どもや夫を連れた家族連れ、SMAPとの共演によって流入したと思しき中年層の女性、連れ立って来る中学生くらいの男女の集団と、客層が多様化したように感じた。これほど雑多に多様な客層を抱えたコンサートは若手ではまずないし、嵐以下のグループで考えてもキスマイくらいではないかと思う。

客層の多様化はつまり、いわゆるジャニオタの割合が相対的に減っていることを意味する。以前に書いたこちらの記事でも触れたが、キスマイにはただでさえ「事務所担」と呼ばれるジャニーズフリークのファンが少ないように思う。

ayayaya-kis.hatenablog.com

多様化したキスマイのファンたち――ジャニオタではない、ジャニーズの文化やセオリーを知らないファンたちにとって、「コンサート」として知っているのは一般のアーティストのコンサートになる。そういう人たちにとって、現在のキスマイのコンサートはジャニーズらしくないからこそ、ジャニーズを知らない人にも馴染みやすいものなのではないだろうか。それが更にコンサート客層の多様化を促し、一般層への敷居を下げる効果を持っているのではないだろうか。

 

私はこの1月、Superflyのコンサートを聴きに行った。友人に誘われて初めて行ったのだが、パワフルな歌声を存分に楽しめて、またアーティストのコンサートにしては視覚的な演出にも凝っていたように思った。ステージの移動、照明色の変化、落下物もあったし、衣装の変化も素敵だった。その際に一番強く感じたのは、アーティストであるSuperflyのコンサートを、キスマイのコンサートと同じように見ることが出来たということだ。

キスマイのコンサートを見るとき、豪華絢爛な演出がなくとも、彼らの歌声に耳を澄まして、藤ヶ谷くんと北山くんのハーモニーを楽しむことができる。白い照明に自担である横尾くんが照らし出される光景は、息を飲むほど美しい。セットリストに好きな楽曲があれば嬉しくなり、彼らの力強いダンスに目を奪われる。息つく間もなく次々に披露される楽曲たちを、思う存分楽しんでいる。それはまるでアーティストのコンサートを見るように。

おそらく、ジャニーズを初めて見るファンにも、キスマイのコンサートはほぼ違和感なく受け入れられるのではないかと思う。強いて言えば、観客の参加するC&Rだけは、何の説明もなく慣習によって行われるため、初見のファンには何が起こったのかわからないかもしれない。だがこれも、コンサートの度にメンバーの誰かが曲の前半でレスポンスを自ら言い、新たなファンにも浸透させようとしているように思う。

2014年以降に一般層のファンが増加したことは、舞祭組での活動の結果でもあると思う。後列の人気獲得にあたっては、新たな一般層を取り込むという方法を選んだ結果が舞祭組というユニット活動なのだろう。2014年からドームツアーを敢行できたことも、そうした狙いの成果であると言える。そう考えれば、2014年のコンサートから、一般層を主な客層に据えた構成にシフトするのは自然な流れなのかもしれない。

こうした「コンサートの脱ジャニーズ化」が、セルフプロデュースになったことに伴って起こったのか、客層の変化に伴う戦略なのかはわからない。だが結果としてこうした変更を行ったことは、戦略として非常に有効であると思う。「ジャニーズのコンサートって、特殊でしょ?」と偏見を持つ人にも、キスマイのコンサートは行きやすい。非常におすすめできる。

 

「キスマイのコンサートがつまらない」という人が居る。ジャニーズなのだから、ジャニーズらしいコンサートをしてほしいのかもしれない。デビュー前の楽曲を求めているのかもしれない。もっと鬼気迫る追い込まれたパフォーマンスが見たいのかもしれない。「どの席から見ても同じように楽しめるコンサート」という観点から構成してほしいという人もいるらしい。

現段階で考えれば、残念ながら、そういった人はキスマイとセンスが合わないので、観るのをやめたほうがいいとしか言えない。現状を受け入れられないのであれば、いつまでも無いものを求めていても仕方ないと思う。コンサートにおいて何を重視するかは人によって違うのだから、そのセンスの合うグループだけを追ったほうがいい。それが普通だ。

…でも私は、キスマイに限っては、更に大きなどんでん返しがあるような気がしてならない。このまま「脱ジャニーズ化」が進んでいくなんて、そんな順当な予想ではまったく足りない。

 

今年のコンサートは何かが違う。

なぜ、先にツアー日程を発表するのだろう?なぜ夏休みの土日を割り当てたのだろう?なぜ急に後払いに変更するのだろう?シングル曲に今さらグループ名が入っている意図は?

デビュー5周年。彼らは一体何を仕掛けてくるのだろう。それがどんな意味を持って、どんな結果を生むのだろう。

良くも悪くも、彼らは普通じゃない。共感できない話や部分もたくさんあるし、常軌を逸していると感じることさえある。完全には感情移入出来なかったり、状況が掴めないこともある。私は彼らを初めて見たとき、このグループはまったく売れないだろうと思った。それが予想を大きく裏切って、彼らはドームツアーを行うグループにまでなった。

次々に想定外のことが起きるリアルタイム・ドキュメントの面白さ、それがキスマイだと思う。彼らについて予測を立ててもほとんど意味を成さない。裏をかかれたように悔しくなったり、清々しく裏切られてスカッとしたりする。

 

はっきり言えば、キスマイを面白いと思わないなら見なければいいと思う。わざわざ見て不満を言う感情はまったく理解できないし、ファンからすると、そういう人を見ることはとても不愉快だ。普通に考えれば、そういう人のことは切り捨てるしかないだろう。

けどキスマイだからこそ、そうではない結論があるのかもしれないと思えてくる。

こんなに目が離せなくて、次が気になって仕方ないアイドルは初めてだ。誰だって自担に一番興味があるけれど、私はやっぱりキスマイが一番面白いアイドルで、観測し甲斐があると思う。こんな大層な予想をしたのに、全然なんでもなくて思い切り肩透かしを食らうかもしれない。普通の感性でなんかまったく予想出来ないのだから。

今年のコンサートは、どうしても初日が見たい。その裏切りも感動も、生でリアルタイムに体感したい。彼らが提供してくる意外性だらけのドキュメンタリー、その暴力的なエンターテインメントに頭まで浸かりたいのだ。

とりあえずは、アルバムが本当に発売されるのか、または何らかの趣向を変えたツアーとなるのか、「脱ジャニーズ化」が続くのかどうか、というあたりが気になる。あと、野球大会のスペシャルゲストに誰が来るのか。横尾くんがわざわざラジオで知らないと言うあたり怪しいのである。

田口淳之介というアイドル

トピック「田口淳之介」について

Xデーである3月31日、田口くんの最後のブログを読み、「同じ空の下にいるよ」というなんとも優しい、しかし確かな別離を意味する悲しいメッセージを受け取った。アイドルを辞めていく者として、これ以上のコメントがあるだろうかと感動さえした。

 

4月1日になった。田口淳之介の名前はジャニーズWEBから削除され、KAT-TUNは本当に3人になった。

その日、とあるトレーニングジムのTwitterアカウントで、田口くんの写真が公開された。そこには、最後の姿となったMステ生放送で見せた姿とほとんどなにも変わりない田口くんが、今までよりずいぶん小さなカメラに向かって微笑んでいた。

けれど、その写真の田口くんの笑顔には少し違和感を覚えた。

今まで見てきた、特に脱退を発表してから私たちに見せていた表情とは少し、違う気がする。それもそうだ。これは雑誌やテレビじゃない。誰かにお金を貰って撮られているわけではないのだから、そんなに完璧に笑う必要なんかない。作り込みのない、とても自然な、ある意味で未完成な、私たちとなにも変わらないただの人になった田口淳之介の笑顔だった。

 

今まで、「アイドル田口淳之介」が見せてきた笑顔の何と完璧だったことか。

この写真はそうではない。プライベートでも交流があるのだという撮影者との、非常に自然な、わざとらしくない普通の微笑みだ。(田口くんが今後芸能活動を行うか否かはまだわからないが、)少なくともこの写真で、彼は芸能人として笑う必要がない。

「アイドルを終えた田口くん」を見て、いっそう「アイドル田口淳之介」への尊敬を深めるよりほかにない。彼のトレードマークの笑顔は、やっぱりちゃんとプロ意識や仕事への意欲から創られた商品だったのだ。私はそういうアイドルの商品性こそが素晴らしいと思うし、そうした素晴らしい商品を生産できるアイドルを人間として本当に尊敬する。

ある意味で、彼はアイドルを辞めることで、自らのアイドル性を証明することとなった。それこそが田口くんがいかにアイドルという職業を完璧に全うしていたかを物語っていると思う。「アイドルという職業を重荷に感じる」なんて、実際にはそんな生半可なものではなかっただろう。

彼は最後の一瞬までアイドルを走りきった。

 

田口くん、本当にお疲れさまでした。

あなたのこと、あなたがKAT-TUNだったこと、絶対に忘れません。